Taisha Ryu is a Japanese system that was at one time famous for guarding the Shogun in Edo castle. However, few know the history of the Ryu and its association with ninjutsu. The group they were associated with were the Sagara ninja that served as a "secret service" group for the Shogun. They eventually became feared by all of the other warlords and developed a special technique called the Ura dachi or inner sword.
The founder of the Taisha Ryu was a one Marume Kurando (1540-1629) who was also known as Marume Ishimi no Kami Nyudo Tessai Fujiwara Nagayoshi Kurando no Suke (now you see why his name was abbreviated). Marume Kurando was said to be a master with the sword from a very early age. It is said that he had his first match at the ripe age of 16, after which he studied Hyoho (military strategy) in Amakusa for about two years. He later entered the Shinkage Ryu of kenjutsu (swordsmanship) at the age of 19. This Shinkage Ryu ("new") was a branch of the older Kage Ryu and was formed after adding Zen buddhism. Marume Kurando orginally had heard of the famous teacher in Kyoto named Kami Izumi Isenokami Nobutsuna and wanted to test his skills with this swordsman. Kurando travelled there and after being badly beaten he immediately asked to become he disciple. Kurando studied kenjutsu very hard for about 5 years and eventually obtained menkyo kaiden (license of complete transmission) in 1567. After returning home, Kurando continued his training and added Marishiten no Ho from India (essentially Mikkyo), and an ancient theory of Izanagi Izanami no Ho to create a new school. This school was later named Shinkage Taisha Ryu. After incorporating these aspects he considered his new school to be a Sogo bujutsu (all encompassing). Eventually, the Shinkage was dropped and the Ryu only went by Taisha and the its main teaching became Ura Dachi. At this point, Marume Kurando had a new Ryu and wanted it to be seen by his original teacher so an embu (demonstration) was prepared. Kurando demonstrated the kata with Nobutsuna Ise no Kami in front of the Shogun Ashikaga Teruyoshi (ca. 1565). The Shogun was very impressed with this embu and gave him a letter which stated that the "Under Heaven the Hyoho (military strategy) of Kami Izumi, is the best ever and should be treated as a treasure." This embu and letter gave immediate respect for his new found ryuha.
Marume Kurando again returned home and served under the warlord Sagara Yoshiaki. Kurando didn't do so well and lost a decisive battle and as a result was cast aside for approximately 15 years. During this time Kurando refined his budo and formed the Sagara ninja group. Kurando eventually became Shinan yaku (top sword teacher) for the new leader of the Sagara han, Sagara Nagatsune. While Kurando taught kenjutsu (swordsmanship) to all of the warriors in this group he also continued to develop the network of espionage agents. At this time Kurando employed a good friend of his from China named Denribo. It is thought that Denribo was originally a pirate and had traveled frequently getting to know hoards of people, which enhanced his involvement with Kurando's group. Denribo became an excellent addition to his group and added many positive aspects. Denribo was excellent at networking with other groups. He is the one responsible for obtaining a variety of Shugenja (mountain ascetics) to aide the Sanada ninja group in intelligence gathering.
These Sagara ninja groups were used heavily against smuggling in the sea. There was said to be at least 10 different groups with all of them being headed by a menkyo kaiden in Taisha Ryu. Interestingly, the groups had titles based upon the names of sword techniques from the Ryu. They were all directly under the supervision of Kurando Marume and had at up to 24 chunin (middle level operatives) and about 16 Genin (lower level operatives). The Chunin were the ones that took orders and dispatched the Genin on a variety of espionage assignments. All of the Chunin were said to be skilled in many areas of bujutsu and always displayed deep insight and personalities. These groups were used to guard many famous people and said to have actually foiled other ninja groups in their assassination attempts.
Marume Kurando, the founder, is said to have turned to farming in his later years and led a quiet life. The Ryu is still taught today and his headed by the current 13th soke Yamakita Taketada. The Ryu still practices both the Omote and Ura Dachi along with the spells from Mikkyo that were added by Marume Kurando. The Ura Dachi of the school that made it famous is said to be a set of techniques using group tactics while armed with swords.
artical from: http://www.yoshindojo.com/ryuha_files/taisharyu.htm
平成21年1月26日月曜日
平成21年1月9日金曜日
平成21年1月8日木曜日
蹴りを使う剣道 タイ捨流
丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)
(1540年~1629年)
丸目蔵人佐長恵は丸目与三右衛門尉の長男として天文9年(1540)、肥後国八代郡人吉(現在の熊本県人吉市)に生まれました。通称を蔵人佐、後に石見守といい、鉄斎・徹斎・石見入道・雲山春竜居士などとも号しました。
下に春斎、頼蔵、吉兵衛の三人の弟があり、弟ともども幼い頃から剣の修行を行ったといいます。また、剣・槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を修めた他、書道も能くし青蓮院流の免許を得ていたといいます。
弘治元年(1555)、島津家と相良家の間でおこった”大畑の合戦”で蔵人佐は相良家側の兵士として初陣を飾ります。ときに16歳。その翌年出郷し、天草の豪族、本渡城主の天草伊豆守種元に身を寄せ2年程剣を修行しました。伊豆守は兵法に広く通じた人物として九州一円に知られていたといいます。
19歳になった蔵人佐は天草伊豆守の元を離れ京に上がります。『本朝武芸小伝』などでは、上洛した丸目を朝廷の「北面の武士」として描いていますが、これには確証はないようです。
上洛した丸目は新陰流の開祖である上泉伊勢守秀綱に出会い、試合に敗れて入門します。一説には伊勢守に出会う以前、塚原ト伝について新当流を学んだという説もあるそうですが、これも確証はないようです。その上達には目覚しいものがあったといいます。その腕前は後に将軍家御前演武の際、多くの弟子を抱える伊勢守が自分の相手として蔵人佐を選んだことからもわかります。
永禄年間中(1558~1570)、伊勢守は13代将軍・足利義輝の命により、兵法を上覧することになったのですが、伊勢守は蔵人佐を相手に選び、見事にその大役を果たした蔵人佐は将軍から感状を下賜されました。場所は将軍家館の一隅に建つ振武殿であったといいます。
修行が成り、師の伊勢守から新陰流の免許を得たのは永禄10年(1567)であったといいます。
この時、伊勢守は新陰流の極意とされる”殺人刀太刀・活人剣太刀”の免許を蔵人佐に下付し、同年5月、改めて誓文を入れさせた上で、殺人刀長短打留までの教授は認めるが、活人剣の方は秘事にあたるため、むやみに人に教えてはいけないという意味の言葉を添えて、制限つきの特殊な免許状を与えたといいます。
この免許を携え、同年蔵人佐は帰郷し再び相良家に仕えましたが、永禄12年、肥薩国境の大口城での戦の際、薩摩の将・島津家久の誘い出しに乗せられ大敗を喫し、その責任を負って永らく出仕を止められました。その後、蔵人佐は島津家との戦で二度の軍功を立てたのですが、出仕は許されなかったようです。
この間、蔵人佐の門人である有瀬外記が関東に下り、伊勢守の門に加わり修行をしたという話があります。伊勢守は有瀬に対し、蔵人佐と別れた後案出した新しい剣技を教え、帰郷し蔵人佐に口授するよういったのですが、それを聞いた蔵人佐は弟子から教わるのを良しとせず、直接師に学ぶため弟と門人数名を従え関東に下ったのですが、すでに伊勢守は世を去った後だったといいます。この出来事に直接の関係があったのかはわかりませんが、蔵人佐は従来名乗っていた新陰流を大捨流と改めたといいます(太捨・体捨・体棄・待捨・タイ捨・タイ捨新陰流とも)。
帰郷後、主家に帰参した蔵人佐は150石を与えられ相良家の剣術指南役となりました。
晩年は隠居し徹斎と号し、相良家から切原野に土地を賜り、寛永6年5月7日97歳でこの世を去るまで開墾に励んだそうです。墓は自身が拓いた切原野(現在の熊本県球磨郡錦町一武)の堂山にあります。emoji:bou1>
流祖は戦国時代の肥後の武将丸目蔵人佐長恵。始め天草流を学んで後に都に上って神陰流上泉伊勢守信綱に師事して同門の柳生宗厳と並んで双璧と呼ばれる使い手となり、時の将軍足利義輝の前で上泉信綱が兵法を上覧する際にはその相手を務めた。やがて帰国し、上泉信綱が病没すると、一流を立ててタイ捨流と名付けた。
なお、新陰流には「活人剣」に通じる「表太刀」に加え、「殺人剣」たる「裏太刀」が伝えられていた。丸目は特にこの「裏太刀」も伝授されている。裏太刀は忍術につながるので、彼はこの裏太刀を重視した。というのは彼は戦国時代には相良家で間諜の摘発に当たって居たためであり、裏太刀を極めた彼は更に江戸時代には忍法指南役になった。その為か、タイ捨流には飛び掛り飛び廻って相手を撹乱して打つ技や、中国拳法の動きを取り入れた刀と蹴り技を組み合わせた剣技が多い。
晩年、柳生宗矩が将軍家指南役として天下一を標榜すると単純な丸目は怒って江戸に赴き、「我こそ天下一の使い手」と立て札を立てて御指南役の柳生但馬守宗矩に一戦を挑んだが、勝ち目が薄い上に勝っても利がないと踏んだ宗矩は「柳生は東の日本一、丸目殿は西の日本一」とおだてた。これで単純な丸目は喜んで肥後に帰り、ついに体捨流は九州の田舎剣術の域を出る事はなかった。だが一説によると丸目はこの時柳生家と取引を行い、相良藩にも忍者の組織を持つことを認めさせたといわれている。ちなみに、この話には後日談がある。この後丸目は柳生流に対する挑戦状として使った日本一の立て札を清水寺に奉納した。しかし、これが残っていると天下の柳生流の名に傷が付くとして、柳生宗矩が忍びを放って清水寺ごと焼いてしまった。これが江戸時代の清水寺炎上の原因であると言う。
→ http://blog.livedoor.jp/marc310/archives/261589.html
(1540年~1629年)
丸目蔵人佐長恵は丸目与三右衛門尉の長男として天文9年(1540)、肥後国八代郡人吉(現在の熊本県人吉市)に生まれました。通称を蔵人佐、後に石見守といい、鉄斎・徹斎・石見入道・雲山春竜居士などとも号しました。
下に春斎、頼蔵、吉兵衛の三人の弟があり、弟ともども幼い頃から剣の修行を行ったといいます。また、剣・槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を修めた他、書道も能くし青蓮院流の免許を得ていたといいます。
弘治元年(1555)、島津家と相良家の間でおこった”大畑の合戦”で蔵人佐は相良家側の兵士として初陣を飾ります。ときに16歳。その翌年出郷し、天草の豪族、本渡城主の天草伊豆守種元に身を寄せ2年程剣を修行しました。伊豆守は兵法に広く通じた人物として九州一円に知られていたといいます。
19歳になった蔵人佐は天草伊豆守の元を離れ京に上がります。『本朝武芸小伝』などでは、上洛した丸目を朝廷の「北面の武士」として描いていますが、これには確証はないようです。
上洛した丸目は新陰流の開祖である上泉伊勢守秀綱に出会い、試合に敗れて入門します。一説には伊勢守に出会う以前、塚原ト伝について新当流を学んだという説もあるそうですが、これも確証はないようです。その上達には目覚しいものがあったといいます。その腕前は後に将軍家御前演武の際、多くの弟子を抱える伊勢守が自分の相手として蔵人佐を選んだことからもわかります。
永禄年間中(1558~1570)、伊勢守は13代将軍・足利義輝の命により、兵法を上覧することになったのですが、伊勢守は蔵人佐を相手に選び、見事にその大役を果たした蔵人佐は将軍から感状を下賜されました。場所は将軍家館の一隅に建つ振武殿であったといいます。
修行が成り、師の伊勢守から新陰流の免許を得たのは永禄10年(1567)であったといいます。
この時、伊勢守は新陰流の極意とされる”殺人刀太刀・活人剣太刀”の免許を蔵人佐に下付し、同年5月、改めて誓文を入れさせた上で、殺人刀長短打留までの教授は認めるが、活人剣の方は秘事にあたるため、むやみに人に教えてはいけないという意味の言葉を添えて、制限つきの特殊な免許状を与えたといいます。
この免許を携え、同年蔵人佐は帰郷し再び相良家に仕えましたが、永禄12年、肥薩国境の大口城での戦の際、薩摩の将・島津家久の誘い出しに乗せられ大敗を喫し、その責任を負って永らく出仕を止められました。その後、蔵人佐は島津家との戦で二度の軍功を立てたのですが、出仕は許されなかったようです。
この間、蔵人佐の門人である有瀬外記が関東に下り、伊勢守の門に加わり修行をしたという話があります。伊勢守は有瀬に対し、蔵人佐と別れた後案出した新しい剣技を教え、帰郷し蔵人佐に口授するよういったのですが、それを聞いた蔵人佐は弟子から教わるのを良しとせず、直接師に学ぶため弟と門人数名を従え関東に下ったのですが、すでに伊勢守は世を去った後だったといいます。この出来事に直接の関係があったのかはわかりませんが、蔵人佐は従来名乗っていた新陰流を大捨流と改めたといいます(太捨・体捨・体棄・待捨・タイ捨・タイ捨新陰流とも)。
帰郷後、主家に帰参した蔵人佐は150石を与えられ相良家の剣術指南役となりました。
晩年は隠居し徹斎と号し、相良家から切原野に土地を賜り、寛永6年5月7日97歳でこの世を去るまで開墾に励んだそうです。墓は自身が拓いた切原野(現在の熊本県球磨郡錦町一武)の堂山にあります。emoji:bou1>
流祖は戦国時代の肥後の武将丸目蔵人佐長恵。始め天草流を学んで後に都に上って神陰流上泉伊勢守信綱に師事して同門の柳生宗厳と並んで双璧と呼ばれる使い手となり、時の将軍足利義輝の前で上泉信綱が兵法を上覧する際にはその相手を務めた。やがて帰国し、上泉信綱が病没すると、一流を立ててタイ捨流と名付けた。
なお、新陰流には「活人剣」に通じる「表太刀」に加え、「殺人剣」たる「裏太刀」が伝えられていた。丸目は特にこの「裏太刀」も伝授されている。裏太刀は忍術につながるので、彼はこの裏太刀を重視した。というのは彼は戦国時代には相良家で間諜の摘発に当たって居たためであり、裏太刀を極めた彼は更に江戸時代には忍法指南役になった。その為か、タイ捨流には飛び掛り飛び廻って相手を撹乱して打つ技や、中国拳法の動きを取り入れた刀と蹴り技を組み合わせた剣技が多い。
晩年、柳生宗矩が将軍家指南役として天下一を標榜すると単純な丸目は怒って江戸に赴き、「我こそ天下一の使い手」と立て札を立てて御指南役の柳生但馬守宗矩に一戦を挑んだが、勝ち目が薄い上に勝っても利がないと踏んだ宗矩は「柳生は東の日本一、丸目殿は西の日本一」とおだてた。これで単純な丸目は喜んで肥後に帰り、ついに体捨流は九州の田舎剣術の域を出る事はなかった。だが一説によると丸目はこの時柳生家と取引を行い、相良藩にも忍者の組織を持つことを認めさせたといわれている。ちなみに、この話には後日談がある。この後丸目は柳生流に対する挑戦状として使った日本一の立て札を清水寺に奉納した。しかし、これが残っていると天下の柳生流の名に傷が付くとして、柳生宗矩が忍びを放って清水寺ごと焼いてしまった。これが江戸時代の清水寺炎上の原因であると言う。
→ http://blog.livedoor.jp/marc310/archives/261589.html
タイ捨流剣術DVD
タイ捨流剣術は肥後国球磨郡相良家の兵法指南役、丸目蔵人佐長恵が創始した新陰流系統の剣術流派である。蔵人佐が武者修行中京都にて新陰流の上泉伊勢守信綱に学んだのがその始めである。修業の成果は伊勢守が時の将軍足利義輝公の天覧に浴した際の打太刀を務めたほどの剣士となり、後に伊勢守より印可状を与えられた。故郷に戻りタイ捨流を称して一派を開いたが、現在に伝わる構えを見るとタイ捨流独特の斜めからの斬撃で敵を斬る様子は名の通り独自の優れた技と言えよう。
◎収録内容
居合型
(燕飛・猿回・虎乱・十手
山陰・刃瞬・超飛)
タイ捨流型 大太刀
(表 嵐勢・一足の詰)
タイ捨流型 小太刀
(鋒縛・朴解・石厭・
退勝・終結の型・刀刀戴)
組太刀
(抜刀・足蹴・逆握・奪刀・突柄)
●演武:山北竹任 ●本体価格: 9,800円 +税●収録時間:26分 ●ビデオNO:BCV50
→ http://www.bab.co.jp/hiden/video/bcv/bcv50.html
◎収録内容
居合型
(燕飛・猿回・虎乱・十手
山陰・刃瞬・超飛)
タイ捨流型 大太刀
(表 嵐勢・一足の詰)
タイ捨流型 小太刀
(鋒縛・朴解・石厭・
退勝・終結の型・刀刀戴)
組太刀
(抜刀・足蹴・逆握・奪刀・突柄)
●演武:山北竹任 ●本体価格: 9,800円 +税●収録時間:26分 ●ビデオNO:BCV50
→ http://www.bab.co.jp/hiden/video/bcv/bcv50.html
タイ捨流 系統
丸目蔵人佐長恵
↓
神瀬草助・太神惟幸
↓
相良庄次郎頼武
↓
神瀬五右衛門惟宜
↓
小田七郎右衛門定矩
↓
小田夕可
↓
小田直左衛門定能
↓
小田金駄左衛門定記
↓
小田八郎左衛門定直
↓
佐無田忠蔵良興
↓
小田夕可定孝
↓
山北竹任定宗
↓
神瀬草助・太神惟幸
↓
相良庄次郎頼武
↓
神瀬五右衛門惟宜
↓
小田七郎右衛門定矩
↓
小田夕可
↓
小田直左衛門定能
↓
小田金駄左衛門定記
↓
小田八郎左衛門定直
↓
佐無田忠蔵良興
↓
小田夕可定孝
↓
山北竹任定宗
始祖は球磨出身の剣豪・丸目蔵人佐(くらんどのすけ)藤原長恵(ながよし)。永禄時代(1560年代)、20歳のころ京都にのぼって新陰流(又は神陰流)の流祖・上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)秀綱の門人となって本格的な修練を始めた。 めきめき上達し、柳生但馬守宗厳(やぎゅたじまのかみむねよし)らとともに伊勢守門下の四天王の一人と呼ばれた。永禄7年(1564)、24歳のころ師の上泉伊勢守と新陰流極意の天覧試合を行い、将軍足利義輝から連名の感状を受けたほどであった。 やがて28歳で新陰流極意の印可を得ると、翌年相良(現人吉市)に戻り、相良藩の兵法指南役を勤めた。薩摩との戦に明け暮れる中で京にも修行に上り、新剣法を工夫してタイ捨流を始めたといわれる。時期的には元亀年間(30歳過ぎごろ)とも、天正13年(45歳)前後ともいわれる。 技は新陰流の真髄に真言密法を取り入れ、自分も生かし、相手も生かす「活殺剣法」で、形の最大の特徴は、右半開に始まって左半開に終わり(逆足)、すべて袈裟(けさ)斬りに終結する独特の構えにある。 袈裟懸け(斜め斬り)に斬り下げ斬り上げるほか、体を飛び違えたり、空手で相手の目を打つなど豪壮な形は演武会でも目を引く。 代々人吉地方に伝えられ、昭和37年、12代小田夕可(せつか)が県の無形文化財に指定されたが、38年に死去したため指定解除。同年、現在の山北竹任(たけのり、小田夕可の実子)が13代を伝承した。 「タイ捨」の「タイ」には、体、太、対、待の意味があると説明されるが、これは免許皆伝書に「理と業とよく合って修行工夫の結果、久しくて悟あるべきこと 依りて仮名に書きたるはいづれにしても心通じ心広く達するの意なり」と書かれていることによる。タイ捨流剣術のなかに居合術も含まれる。
◇練習場 球磨郡錦町、熊本市ほか
タイ捨流創始
【丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)・タイ捨流創始・相良藩剣術指南役】(1540~1629 )肥後八代郡人吉に生を受ける。幼い頃から剣の修行に励み、16歳の時、大畑合戦で初陣を飾る。翌年、天草の本渡城に身を寄せ、天草伊豆守から中条流を学んだ。19歳になると、当時最強と謳われた兵法者、上泉伊勢守(新陰流始祖:竹刀の原型を発明し、技術水準に応じた段階的な修行方法を構築するなど、今日の剣道の基礎を築いたとされる)に挑むために上京。しかし、あえなく敗退しそのまま新陰流に入門した。その後、28歳で上泉から印可状を受け、3度目の上京の後、タイ捨流を興した。「タイ」とは、大、太、体、待などの意味を持ち、これを捨てた「自在の構え」を旨とすると言われている。
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